2011/11/07夜叉が池の登山道で「ゆずり葉」を見ました

 10月29日(土)に奥揖斐の夜叉が池に登ってきました。総勢10名のグループで,1時間半ほどの行程です。そのうち6人は岐阜大学の卒業生です。

 途中,登山道で「ゆずり葉」を見ました。
 春に枝先に若葉が出たあと,前年の葉がそれに譲るように落葉することから名付けられているようです。
 その様子を,親が子を育てて家が代々続いていくように見立てて縁起物とされ,正月の飾りや庭木に使われています。また,師が生徒を育てて社会に送り出していく様に見立てて,卒業式などでも披露されるようです。

 登山の後,岐阜駅近くで懇親会(ただの飲み会)を行いました。
 その席で,「ゆずり葉」を思い出し,卒業生の皆さんに,「師(Y先生)に対する最高の報恩は,まさに師を超える一路の他にない。」といった趣旨のことをお話ししました。
 わたしたち大学の先生は,若者が高い志を立てることができるよう手助けするだけです。ただし,若者の魂をその根本から揺り動かし,眼を覚まさすためには,どうしてもまず先生その人に,それだけの信念の力がなければなりません。すなわち,若者たちがその眠りから覚めて,自ら起きて自分の道を歩み出すためには,まず先生自身が,全力を挙げて自分の道を進まなければならないのではないでしょうか。


河井酔茗の「ゆずり葉」という詩の全文を紹介しておきます。

ゆずり葉
「子供たちよ これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は 新しい葉ができると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずってー

子供たちよ お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も 幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー。

世のお父さん,お母さんたちは 何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの,よいもの,美しいものを,
一生懸命に造っています。

今,お前たちは気が付かないけれど ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい,花のように笑っている間に 気が付いてきます。

そしたら子供たちよ もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。」

                                 ~「花鎮抄」より~

 私たち先生は,ゆずり葉のように,次の世代に素晴らしい若者を引き継がなければなりません。無償の愛と知をもって。

:Y先生のひとりごと